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○鰐淵洋子君 公明党の鰐淵洋子でございます。

 四人の参考人の皆様、本日はお忙しい中、大変に貴重な御意見を賜り、ありがとうございました。

 早速質問させていただきたいと思いますが、まず内藤参考人と荒瀬参考人にお伺いをしたいと思います。お二人は長年児童生徒とかかわってこられたということで、是非、ある実態調査を基に御感想というか御認識を伺いたいと思っておりますが。

 先日、一般紙に携帯電話をどのように使っているか、それを日本PTA全国協議会が中学校二年生と、あと小学校五年生、またその保護者の方ということで、計一万人の方に実施、意識調査をされたということでございました。

 その結果によりますと、携帯電話をどのように使っているか、携帯電話を使って親子で会話をしているのか、そういった調査でございまして、それに対して中学生の保護者の方、親御さんの方は約九割の方が携帯を使って子供と話している、そういう認識を持っているということでございました。それに対して中学生自身は、五割以上が親と話していない、こういった認識を持っているということで、親子間の認識のずれということでその結果が浮き彫りになっていたわけでございますが、この結果に対して日本PTA全国協議会のコメントは、子供を信頼することは大切だが、認識にギャップがある現実を直視し、携帯電話の使用内容に一層の注意を払ってほしい、こういったコメントが載っておりました。

 私自身は、親と子供のこの認識のずれというのは、ただ単に携帯電話の使い方だけではないと思っておりますけれども、ここの調査は携帯電話を通じての親子の認識のずれという実施調査が出たわけですが、この認識のずれについて、それぞれ先生方のお考え、また御感想でも結構ですが、ありましたらお伺いをしたいと思います。

○参考人(内藤宏君) それは言葉の使い方、会話の仕方が間違っているんです。要するに、我々はお互いに会話をしますね。そのときに、例えばの話が、おはようございますと言うことがあったときに、おはようございますという言葉は頭に入っている。しかし、それを乗せている響き、このおはようございますという言葉に響きがありますね。言い方を、おはようございますと言うのと、おはようございますと言うのと違いますからね。この響きは、こっちの心の方に入っていくんです。

 だから、親は、携帯であってもなくても何でもそうですが、親の方は話をしていると思っているのは、恐らくそれは自分の言葉を伝えていると思っている。だから、自分は話ししているんだと思っている。その認識にギャップがあるというふうになっていると思いますが、それは、そこにあるんです。子供はじゃどうかというと、言葉で聞いているんではないんです。そこの、親の話ししたその言葉の響きを聞いているんです。

 ですから、もう少し具体的に言いましょうかね。例えば、あんたは何てお利口さんなのと言う場合に、あんたは何てお利口さんなのと言えば、ああ、利口なのかななんていって思うかもしれないが、あんたはなんてお利口さんなのと言ったらば、あれは利口だなんて言っているけど、本当はばかだと思っているんじゃないか、こうなるわけです。それは、響きは利口だと言っていないからです。

 だから、その場合に、九〇に対して九〇じゃなくて半分近くというのは、中には偶然響きも両方良かった会話をしている人もいるんだろうし、そうでなくて、言葉は当たり前だが響きの悪い言葉を使っている。そうすると、子供というのは我々大人よりは情緒が豊かですから、我々は響きなんて余り感じないで話しているくせに、子供はどっちかというと情緒でとらえるんです、言葉を。だから、響きが悪いと、その悪い響きに対する感情で子供は答えるんです、嫌な感じというふうに。大脳はそういうことを忘れない。だから、お互いに会話が通じ合わないと。これは今の社会で親子が殺しっこしたり何かしてみんなやっているのは、もとはこの会話ができていないということ、言葉が崩壊しているために社会が崩壊している。だから、この先、今さっき育てる教育と言いましたけれども、あれを回復させていくのには、同時に言葉の崩壊を立て直さなかったら教育改革などはできないんです。こんなことを全部もう講演して歩いていますけれども、今の場合は、漢字で書いたところの言葉と、その言葉を運んでいる響きの違いだと思います。だから、そこのところがコメントできなかったから細かく書いてないんだけど。

 だから、昔は読み書きそろばんなんて、そろばんは計算ですけれども、読み書きそろばんと言っていたけれども、これからはというよりも、今からでも読み書き話すそろばんといって、話すを入れなきゃ駄目なんです。だから、スズメがあんなに仲よく遊んでいるのは、あれには三十ぐらいの言葉がある。スズメはスズメ同士、スズメの言葉を使って遊ぶからスズメらしくなると、こんなの当たり前の話なんです。だから、そういう響きを大事にして会話するということをやはり普及しないといけないと思います。

 答えになったかどうかよく分かりませんが。失礼しました。

○参考人(荒瀬克己君) 一般的に言いまして、子供と大人、あるいは子供と親、生徒と教師の間には乖離があります。ですから、自分の子供のころのことを考えてみましても、すべて親に言っていたかというと、そんなことは全然なくて、秘密の基地があったりとか内緒事があって、その内緒事を共有している仲間の方がある時期は親よりもずっと大事。でも、それは親によって見守られているからなんですね。

 最近、私が非常に心配いたしますのは、具体的な行為として出てくる現象を、親はあるいは大人はあるいは教師は見張ってばかりいて、本当のところ、見守るという行動になかなか徹することができないということがあるんじゃないかなと思います。確かに、悪意の大人が一杯いて、外で遊ぶこともできかねるというふうな状況があるのは事実でありますけれども、しかしながら、その中でどんなふうな工夫をしていくのかというのが今大人に問われているのではないかということを思います。

 携帯電話も、ちょっと極論を申し上げますと、バイクもあるいはたばこも、そういったものは子供にとって有害であるならば有害であるということで対処するべきなんですね。もし本当に有害であるということが第一義的にあるのであればと私は思います。でも、たばこは大人が吸っているし、バイクはバイクで、私は必ずしも子供がバイクに乗ることについて猛反対をしているわけではありませんけれども、携帯電話もしかりであります。そういう状況、そういう時代の中で子供たちが生きているというのはもう事実であります。その中で、じゃ大人はどうしたらいいのかということが必要になってくると思います。

 子供と携帯電話で親が話しているというその認識自体が非常に驚く話でありまして、私は妻とメル友でありますけれども、こういう事態が大変驚くべき認識でありまして、本来面と向かって、フェース・ツー・フェースで話すということが原則としてあるわけだと思います。その原則が、携帯電話になったところで通い合っていると思ってはいるかもしれないけれども、やはり人間というのは目と目を合わせて相手の体温を感じるようなところで話し合うというのが非常に大事だと思います。そういうのが、これは特別なことじゃ何でもなくて、当たり前のことだと思うんですね。その当たり前の親子の関係、当たり前の大人と子供の関係、当たり前の教師と生徒との関係というのを築いていくことが大事だと思います。

 ただ、子供には、冒頭申し上げましたけれども、子供には子供の都合があります。それは大人ではどうしようもない都合があると思います。しかしながら、良いことと悪いことの区別というのは、これはきちっと教えるというのが、これは大人の責任だと思います。私たちはそうして育てられてきたわけですね。そこの部分を子供の自主性だとか子供の主体性だとか個性だとかいった言葉で逃げて、実際に指導しないというのが大きな問題だというふうに思います。

 以上でございます。

○鰐淵洋子君 ありがとうございました。

 続きまして内藤参考人にお伺いしたいと思いますが、内藤参考人の方から今日もお話がございました。今、児童生徒に対して、子供たちに対して、教えるのではなくて育てていく教育が重要であるということでお話をいただきました。私自身も、やはり児童生徒にとって教師また親というのは最大の教育環境でありますので、本当にこの存在は大変に重要であると思いますけれども、この教える教育から育てる教育に転換するに当たって、具体的な、ではどのように具体的に取り組んでいけばいいのかということでもう少しお話を伺いたいと思うんですが。岐阜県の方でこの教育改革を行ったということで略歴の方にも載っておりましたけれども、そちらの具体的な取組でも結構なんですが、ではどうしたらいいのかというところで、その具体的なお話をお伺いしたいと思います。

○参考人(内藤宏君) 教えると育てるですね。

 岐阜県の方はモデルづくりに行ったんですが、悪口になるからよしましょう。余り協力的でないし、ふまじめだから帰ってきたんですよ。だから、それはいい。今それを川崎で何とか、地元ですから、市長がよく理解してくれているので、川崎で今やっているところです。

 教えると育てるですけど、今さっき話が途中になりましたので、素直ということでちょっと説明させてもらいますけれども、要するに、子供に素直ということを教えるときに、まあ省略して話しますが、あなたはお母さんの言うことを聞きなさい、お母さんの言ったとおりしていればいいのよとか、そういうふうな言い方が非常に多いわけです。これが押し付けがましいというんです。これが教える教育であって、それで、教えよう教えようとするから自己中心の、自分勝手な物の言い方になっているんです。子供はそれで、言うことを聞かないとまたしかられるから、今度は怖くなって、お母さんが何か言うと、はい分かりましたなんて言い出すようになるんです。それを聞くと親の方は、ああ、やっと素直になったんだわ、私の言うことを聞くようになったと錯覚を起こすわけです。

 しかし、そうしてでき上がった素直を、前に言ったようにこれを見掛けの素直さというんです。本当の素直になっていない。子供は何になっているかというと、何だ、うちのおふくろというのはうるせえんだなとか、あんなうるさいんだから、素直にと言うんだから、言うことを聞いて返事しておけばいいんだとか、いろいろそんなことを考えて、結局それを通して要領のいい子供をつくっているんですよ、ずるい子供を。だから、教養として身に付いたのはずるさなんです。ちっとも素直でない。だから、素直でないから同僚を殺したりするわけです。いい子でも何でもない。

 今さっき言ったように、じゃどういうふうにして素直さをつくるかというと、例えば小さい子供と一緒にこれからお使いに行こうといってお使いに出掛けるとします。そうすると、子供は、まあ白い服を着ていたとする。子供はお母さんが白い靴出すと、いや、黒の方がいいって。また白というと黒がいいって。こういうのは、これが全部反抗ですね。それは反抗させておいた方がいいわけです。それを無理に、洋服が白だから白にしなさいと言うのがこれが押し付けがましいんで、これでみんな失敗していくわけです。だから、教えようと思うからなんです。この子を、この子に素直ということを身に付け、素直の身に付いたそういういい社会人に育てよう育てようと思ったら、無理は言わないんです。

 無理言わないから、ここで、子供が黒と言うと、ああそう、じゃ、あなた今日黒なんだから黒履いていきなさいと言って、そんなに無理言わないで親の方が素直に、じゃ今日は黒を履いていきなさいと言うんだから、子供は情緒で親のその素直さを見て、情緒で素直というのを最初に感じ取るんです。それからまた同じようなことやって、いつも黒だからって、いいんです。ああそう、今日も黒履いていくの、どうぞと言ってやっているうちに、子供というのは格好付けて、たまには白履いていってやるかって、こうなるわけなんです。そうしたら、そう、今日は白いのを履いていくの、じゃ履いていったら、白い服と案外似合うわよなんて言いながら履かせていく。そのときに、自分が白を選んだんだから、このときには意思によって決めた。こうなって初めて子供には素直というものが身に付いて、本物になって身に付いていくわけです。これが、反抗を上手に活用した素直さなんです。この素直を身に付けた者はあんな人を殺したりそんなむちゃはしない、面倒なことは起こさない。こういうことです。そこが、教えると育てるの大違いなんです。

 僕もこの年になるまで、二年前ぐらいまでこの違いを正確に分からなかったんだが、二年ぐらい前になって初めてこれは、教える教育と育てる教育はこんなに違うんだということに気が付きまして、それ以来は、これしか教育を改革する方法がないということで、二年間はこれだけを講演して歩いているんです。どこへ行ってもみんな喜んで聞くんですよ。三度も四度も聞くんだから、いいんじゃないんですかね。

 その区別を、我々はうっかりすると、どこまでが教えるでどこまでが、似たようにやるとみんな錯覚を起こすんですが、よく考えたら歴然と区別ができているわけですね。だから、教えようと思ったら教えられないということを知っていればそれでいいんです。よろしいですか。

○鰐淵洋子君 ありがとうございました。

 では、最後になるかもしれませんが、荒瀬参考人にお伺いをしたいと思います。

 昨年末にも大きな社会問題となりましたいじめや未履修問題、こういった問題の対応の仕方とか対応の在り方によってこの責任の所在がどうなのかということで、国や教育委員会また学校の在り方について様々な議論が行われました。こういった問題の対応もそうですし、そのほかの、今後学校をどういうふうにしていこうか、どういった教育をしていこうかという、そういった対応もあるかと思いますが、そういったそれぞれ学校において教育を進めていく上で、国また教育委員会、学校、それぞれ果たすべき役割というものがあると思います。

 基本的に私は、この教育の実施主体は学校であると思いますし、国や地方自治体はサポートする立場にあると思っておりますが、少し大きな話になりますが、これから教育また更にいい方向に進めていく上で、それぞれの役割の在り方、学校、教育委員会、国の責任の在り方、それについて、時間は限られておりますが、何かお考えがありましたら、最後お伺いしたいと思います。

○参考人(荒瀬克己君) ありがとうございます。

 未履修問題でございますけれども、高校教育に影響を与えるものというのは大きく二つあろうかと思います。一つは大学入試であります。もう一つは就職状況であります。もう少し述べましたら、高等学校に対する社会の見方というようなことも言えるかもしれません。未履修問題が起きました背景は、多くの学校が大学入試ということを理由に言っていることからも、非常に大学入試の影響というのが強いかと思います。

 私、この件に関しまして非常に印象深かったことが、中教審の教育課程部会の委員をしているということもありまして取材をたくさんいただいたんですけれども、NHKが取材に来られたときに、直接高校三年生に取材をしたいということをおっしゃいました。その際にうちの三年生の生徒が取材に応じて、インタビューに応じて話をしたんですけれども、大きく三通りの答えを言いました。

 一つは、同じ高校三年生で必履修とされている科目をやった生徒とやらなかった生徒がいると。受ける大学入試は一緒であると。よって、これはずるいと言いました。本当に私は悔しくて仕方がないというふうな論調でずるいと言いました。もう一つは、この後の始末といいますか手だてとして、補習を受けて単位の修得を行うということが決まりました。これは、受けた生徒たちは本当に負担が大きかったと思うんですけれども、そのことに対して言った生徒がおります。どういうことを言ったかといいますと、単位を取るために勉強ってするんでしょうかということでありました。三つ目の生徒の対応といいますのは、世界史のことを指して、自分は世界史は受験では使わないと。しかし、世界史を学んだことによって非常に役に立っていると。そういう三通りの答えがありました。

 私は、教育というのはこの三つすべてを認めていく仕事だと思っておりますけれども、確かに、そのずるいというのは正しい指摘だと思います。それから、単位を取るために学んでいるのではないというのも正しい指摘だと思います。やったことが役に立っているというのは、本当にこれはうれしい指摘だというふうに思っております。

 ですから、これから学校で具体的にその授業を組み立てていく上での学習指導要領が考えられていきますけれども、その際に、高等学校の裁量というのは、各学校の裁量というのは非常に重要だと思います。しかし一方で、これからこの国を担っていく若者たちにどのような教養を身に付けさせるのかという部分のやはり全国的な我が国としての合意というものは、これは欠かせないだろうと思います。そのバランスをどのように取っていくのかということが今非常に大きな課題としてあろうかと思います。

 先ほど先生がおっしゃいました国、教育委員会あるいは都道府県、それと学校の責任ということでありますけれども、学校教育の担い手といいますか、それはやはり現場であります。それが最もいい形で動いていくように、是非とも、都道府県あるいは教育委員会そして国は大きな大きな支援を、目に見える形の支援を是非していただきたいと思っています。

 教員は、申し訳ありませんが、少したたかれて、学校も少したたかれて疲れております。基本的に教育に携わる者は楽観的でありますけれども、それは生徒の未来を信じているから楽観的なんですけれども、しかしながら、その楽観的なところをやはり守っていただけるような、そういう政策を是非お願いしたいというふうに思っております。

 以上でございます。

○鰐淵洋子君 ありがとうございました。


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